SSブログ

『「空の空」から永遠の命へ』  伝道者1:1~9 [礼拝メッセージ]

10月20日  召天者記念礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
1020.jpg


 本日は召天者合同記念礼拝だ。この聖書箇所は今から約3千年前、イスラエルの最盛期に最高権力者であったソロモン王の言葉である。知恵に満ち、ありとあらゆる事業を行い、全てを手にしたソロモンの言葉が「空(くう)の空、全ては空」である。これはどういうことなのか?
 私たちは様々なもののために労苦している。家族のため、お金のため、仕事のため、日々忙しく働いている。それが益になるかどうかなど考える暇もない。しかし、ふと振り返ると「自分は一体何をやってきたのか」と虚しい思いが残る。「永劫流転」という言葉がある。万物は流転し、全ては繰り返される。ソロモンも「日の下には新しいものは一つもない」と断言する。人はいつも同じことを繰り返しているのだ。貧しい農民から頂上まで上りつめた豊臣秀吉も、辞世の句で自分自身を「一瞬の朝露」、目覚めたら何も残らない「夢のまた夢」とたとえた。ソロモンや秀吉のように、やるべきことをやり尽くした人間でさえ虚しさを感じる。ではその、虚しさの原因は一体何なのか?
 それは、人生のブラックホールである「死」である。飲み込まれると消えてしまう。人は死を避けたがる。霊柩車や火葬場など、必要なものであるにも関わらず忌み嫌う。病院でも、「死」を連想させる4の数字の階数や部屋番号を表記しないところもある。しかしいくら避け続けたところで必ず死は訪れる。
 そんな私たちに、イエス・キリストは十字架の死からよみがえって下さり、死後の世界があることを証明して下さった。キリストを通じて創造主と繋がり、永遠の命が与えられたのだ。
 本日礼拝で歌った「赤とんぼ」は、作詞家の三木露風がトラピスト修道院で洗礼を受ける、少し前の時期に作ったとされている。「とまっているよ、竿の先」という歌詞には、イエス様を信じた彼の気持ちが表されているのだそうだ。また「赤とんぼ」と共に「21世紀に残したい歌」に選ばれた「ふるさと」、作曲家の岡野貞一も熱心なクリスチャンで、教会のオルガニストとして仕えた人だった。彼もまた、聖書の説く天国にふるさとを見たという。
 先に召された人生の先輩方もきっと、「天国はほんとうにある」と、そして「イエス様にあってしっかり備えをしておくように」と私たちに語りかけてくださるのだ。

「ベレヤの人々の模範」使徒17:10~15 [礼拝メッセージ]

10月13日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
1013.jpg


 パウロとシラスは「世界を騒がせてきた者たち」と評され訴えられたが、そう評されて当然である。パウロは福音のダイナマイトによって個人の人生・家庭・地域社会を、イエス様の恵みによってひっくり返してきたからである。イエス様は「あなたがたは世の光です」と信じる者に言われた。光は目立つ。信仰をもって従って行く時に人々の暗闇を照らす光となる。パウロはうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っていた。(ピリピ3:13・14)この様な生き様が人々に影響を与えないはずがない。私達は本当に完全燃焼し、ベストを尽くして生きているのか?と考えさせられる。
 ベレヤの人々は素直で熱心にみことばを聞いた。松下幸之助氏は成功するために大切なことを一つだけあげるとすれば「素直さ」だと言われた。素直さとは ①人の話を聞くこと ②聞いて良いと思ったことでリスクの少ない事はやってみる事 ③本当に素直な人はそれをやり続ける 信じているから結果が出る と教えられた。ベレヤの人々が熱心にみことばを聞く動機は問題や試練があったからとも考えられる。 問題・課題はその人をみことばに向けさせることに用いられることが多い。
 私達はなぜ聖書を読むのか?私達は肉体的にはパンが必要である。でも心の糧はみことば、すなわち私達がみことばに生きることができるように、それが聖書に親しむ最大の理由であるべきである。いざという時、三つの愛に生きることができるのか、イエス様ならどうされるかを実践できるのかが要である。先日、Fさん(教会員)のお父様の葬儀をキリスト教式でしてほしいと頼まれた。お父様はあるお寺の信徒で般若心経を心の支えとしておられ、葬儀には住職と信徒の方が大勢来られると聞いた。ならばと、私はこの方々に般若心経を唱えてもらい、その有名なフレーズを現代語に訳して説明し、敬意を表した。この方々も一緒に讃美歌を歌い、メッセージに耳を傾け、いい顔をして帰って行かれた。Fさんのお母様と弟さんは「尊重してくれてありがとう、感謝しています」と言われた。キリスト教の葬儀の目的の一つは、いかに遺族の方々にイエス様に心を開いてもらえるかにある。

「世界中を騒がせて来た者たち」使徒17:1〜9 [礼拝メッセージ]

10月6日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
1006.jpg


 伝道旅行を続け、テサロニケにあるユダヤ人会堂に入ったパウロは、いつものように聖書に基づき「イエスこそキリスト」であると論じる。しかしユダヤ人にとって、待ち望んでいた救い主が、十字架で死んだということを受け入れるのは、非常に難しいことであり、これは一般的にもそうであろう。今も昔も人々が宗教に求めるのは、不思議な印やご利益、あるいは生きていく上での知恵等であるからだ。もちろんイエスがそれらを与える力を持っていたことは、十字架にかかるまでの生涯で証明済みである。しかし、人間にとっての本当の救いは「罪による死」からの解決にしかなく、父なる神は、一人子であるイエスを世に送り、私たちの罪を贖うために十字架にかけるという、驚くべき方法をとられた。人の目には愚かに見えるような道を通して、救いを与えてくださったのだ。

パウロの言葉を聞いて、幾人かのユダヤ人、神を敬うギリシャ人、貴婦人たちがイエスを信じたのに対し、他のユダヤ人はねたみにかられ、パウロたちを潰そうとした。これは、自分を変えようとせずに相手を変えようとする態度であり、ルカ10:38〜42に出てくるマルタにも当てはまる。イエスをもてなそうと、気が落ち着かずに動いていたマルタは、妹のマリヤが自分を手伝わずに、イエスの話に聞き入っていることに腹を立てる。これもまた、ねたみによるものであり、マルタはマリヤを変えようとしたのだった。私たちは一人一人違って良く、自分にできることでイエスに仕えれば良いのである。

 テサロニケの人々は、やがて模範的なクリスチャンへと成長していくが、それを支えたのは、イエスの再臨への希望だった。救いの門が開かれているのはその時までであり、マタイ25:14〜30のタラントの例え話のように、主人の帰還により、各自の働きが清算される時がくる。大切なのは、自分に与えられているタラント=賜物を活かす、用いることであり、賜物の大小や種類は関係ない。また、賜物のない人は一人もいない。たとえ小さな賜物であっても、コツコツ積み上げていくならば、加速度的に大きな働きになっていくし、たとえ苦しみや悲しみの体験であっても、主にあって、他の人の痛みに寄り添うことのできる賜物へと変えていただくことができるから。主は必ず帰って来られる。その希望を胸に、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言っていただける歩みを送っていきたい。

『チャンスを生かす』使徒 16:29~40 [礼拝メッセージ]

9月22日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
0922.jpg

 聖書の有名な言葉「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」とは、主イエスの上にあなたの身を置きなさいという意味。信じて飛び込むことが信仰である。ここでの家族とは私たちが結婚した時にできる家族のことであり、救われるためには一人一人が信じることが必要である。だから私たちの責任は我が子の信仰継承と未信者の配偶者のために祈り導きを求めることである。
 パウロは牢屋が開いて警吏たちがパニックになったとき、時を逃がさず彼らに主イエスを信じなさいと語り、チャンスを生かしたのである。イエス様の例え話の中に高価な真珠を探している商人の話がある。当時真珠は最も高価な物であり、遂に真珠職人は究極の一品を見つけ出した。これこそ福音の真価を知った人の姿である。パウロ自身も主を信じた時にこれまでの価値観は引っくり返った。私自身も高校生の時に頂いたこの真珠が真理であるかという課題の確認をしてきたが、その結論はイエス様こそ救いに関する唯一の道、命であった。この価値がわかると人生に誇り、自信、知恵が与えられ、そればかりかこの真珠は天国への通行許可書でもある。私たちの教会では各年代の信仰教育の機会を提供しているので、上手に活用してイエス様を子どもたちに受け渡して欲しい。
 さてパウロは釈放される時長官たちに抗議した。彼らに、自分たちへの誤った取扱いを逆手に取ってピリピの教会の保護をとりつけた。パウロの機を逃さない賢さである。私は教会が優先すべき対象者は求めを持って教会に来る新来会者であるということを改めて示され、5回シリーズの寸言に裏付けの御言葉を入れて送ることにした。これもチャンスを逃さないことの実践である。
 パウロたちが釈放されてルデヤの家に現れた時、祈っていた人たちは自分たちの祈りをはるかに超えて働いて下さった主をほめたたえたことだろう。ところで来年の奉仕者研修会では執事・教師に証をしていただく。信徒の代表である彼らは多くの奉仕を担い、牧者も兼任している。しかもイエス様の恵みを知っている故に喜んで捧げている。キリストのからだなる教会に仕えることはイエス様に仕えること。いつか奉仕が出来なくなる時が必ず来る、後悔のないように今ベストを尽くしておきたい。奉仕者研修会での我が教会の証が用いられ、参加した諸教会の信徒にとってタイムリーな励まし、見本となって用いられるように願う。チャンスを生かして主のためにお仕えしていこう。